日記の活動をアピールする気持ち

日記の活動をアピールする気持ちの表れと、気持ちの変化

ふーゆーあー

ずっと焦燥感を抱きながら日々暮らしている。自分のしなくてはならないこと、自分のしたいこと、自分に期待されていることがどれも上手にこなせず、自分のためにいっさいならないこと(Goat Simulatorとか)ばかりしている。焦燥感をもっているくせして動けず、それは動き出さないからなのだけれど、ではどうやって動けない人を動き出させることができるのだろうか。

冬になってから、もとから散漫な注意力がさらに散漫になった。気圧のせいで常に眠いのでコーヒーを飲むと、さらに注意力がなくなっていく。こんなに冬が嫌いだったかと思うほど、今年の自分は冬をうらんでいる。

でも本当は、冬のせいにできる割合は10%くらいで、残りは自分に責任があるのだ。責任責任。嫌な言葉だなあ。まだ僕は、自分の人生に責任を持ちたいような、誰かに持ってもらいたいような、子供っぽい思いでいる。子供は楽だけれど、真に自由ではない。大人は大変だけれど、真の自由を獲得できるかもしれない。真の自由は実は苦しいかもしれないし、理解されないかもしれない。

つくり出すということに魅力を感じてしまった以上、僕は真の自由に憧れがある。そのために努力を惜しまない人物になれるだろうか。

 

そんな気持ちでつくったわけではありません。4日前につくった曲。暇なんかじゃあないのに画像の加工もしたりなんかして。

soundcloud.com

さからう

さからって生き、あらがって生きる。あがなって生きる。そのように、生きうる。

まだ20代でもう20代だけれど、最近やけに生きることについてのことがらがしみ込んでくる。生きる人や生きない人がいて、僕はまだ生きている。生きなかった人の灰がどこを見ても広がっていて、眼鏡でもかけていないとやってられない。生きる人も生きない人も裸眼で見られる人は、よくやっているなあと思う。

 

すべては僕の問題であって、僕の問題でないものは存在しない。僕の周りにいる人が生きるか生きないかは僕の問題だ。他人の命を勝手に背負い込んでいる?生き死にをコントロールできるという話ではない。周りの人間が生きるという出来事・生きないという出来事に対面している僕には、僕の問題しかないという話だ。

あたりまえすぎた。くだらない話だ。

死んだことのない僕たち。

でも生きていてほしいよ。みんなに生きていてほしい。死なないといけないことに対面したことがないから、それがどのようなことか、まだわからない。そんなことに対面したときは死ぬのだから、迷いはないのだろうと想像はするけれど、これは定義がそうだからで、それってどんなことなのだろう。一体どうしたとき、生きないことを選ぶのですか。

くちなし

死人に口が形成されて、口を使って、口がなくなっていく。結果として死人には口がなくなる。口がなくなるまでの過程であるところの僕ら死人には口がある時期があって、口を使えるうちに口のない死人のことをあれこれ言う。口のない死人はそれを黙ってみているけれど、口のない死人には目もないのだった。

それで?いや、べつに。

カクトレ

自分のことばかり書き散らすのは恥ずかしいことなのではないか、おかしいことなのではないかと思ってしばらく書けずにいた。まだそう思っている。

くだらないことでも、拙い文でも、つらっと書いていける人はすごいと思う。うらやましいと思う。「今思っていることを書きましょう」なんて言われても、筆は止まる一方で、「困った、これでは意味が通らない、主語はどこだ?結局言いたいことは?」と考え続けてしまう。今かなり無理をしてキーボードを打つ手を止めないように書いていて、必死で頭を働かせている。うわ、どうしよう。この「キーボードを~」は始めとか終わりとか、わかりやすいところに置くべきだったんじゃないだろうか。つらい。恥ずかしい。恥ずかしい文章を書いている。タイトルに書けば大丈夫かな?フォームが悪いらしくすぐ右手首が痛くなる。

何の話だったかな。そう、僕は文章の体裁がとても気になる性質で、気になる割には上手い文章はさっぱり書けるようにならない。書く分量が少ないので当然ではあるけれど、けれど、、けれど何だろう。

 

40秒くらい止まって見直してしまった。何も得られなかった。ここから駄文でなくするにはどうしたら良いのだろうか。無理か。あーこんなものを公開するべきではないのでは?と思いながら、「こんなもの」なんて書かなければいいのにと思う。

ネット上で公開されるものに付く「つまらないものですが…」という言い回しがとても嫌いだ。謙遜なんてしなければいいのに。自分の出すものには一定の自信があるから世に公開しているわけで、「いえいえ、私なんて(と言いながら、○○に比べればもちろん大したことないがxxよりは良い)」と誰しも思っているはずだ。僕は思っている。あなたも思っているでしょう。いるでしょうが。

なので、自分の基準では「これは世に出せるレベルじゃないだろう…」と思ってしまうようなクオリティの絵や音楽を見聞きすると思考が止まってしまう。嘲りの気持ちも当然含まれているのだけれど、困惑が大きい。一方、これは自分に当てはめてしまうと厄介で、世の中の良い物に触れる限り、良い物に対する感度(センス)は上がっていく。一方で自分で作り出すものは創り出さないと、そのレベルが上がらない。その結果「世に出せないレベル」だけむやみに上がってしまって、身動きが取れなくなる。

 

このブログでなんども同じ話をしている。僕は自身のセンスに自信があるが、創り出すことにあまりに慣れていない。2,3記事、内容が重複しているような気がする。また書いてしまった。自分の内面の、理解できていることについて。では作るしかないのである。

 

手を止めずに書けば10分しないでこれくらい書けるんじゃないか。かなり苦しいけど、トレーニングのようで面白かった。

落ち着かない日々

自分の音楽的才能には多少の自信があって、自分を楽しませることのできる音楽を作ることができる自負がある。一方で怠惰が自分の大部分を占めていて、すべてのことを後回しにして寝てしまったり、だらだらしてしまったりする。

 

なぜかといえば、音楽は生活の本質ではない。音楽がなくても生きていける。

 

それでもなお、音楽は(私の)生活の本質である。幼いころから触れてきたせいで、あまりに音楽に近づきすぎている。

 

何度目の決意かわからないけれど、今は自分のための音楽を作りたい。自分が真に良いとおもう音楽。

言ってないでやったらどうですか。

ロンリセンス

僕の話し方は論理的らしい。少なくとも、きちんとした場で話す場合には。最近は偉い人と話す機会も多いので、よく言われるようになった。自分としては、いくつも先回りの予防線を張っているという認識はあれど、「自分の話し方は論理的だなあ」と思ったことは一度もない。ということは才能、あるいはセンスに分類されるもので、何かの拍子に抜け落ちるのではないかという不安がある。自分の楽器のセンスについても常にその不安があるので、なるべく言葉にして、技術にして整理しておきたいと考えている。論理的な話し方についても同様に技術にする必要がありそうだ。

自分のことを論理的だと思ったことはない。いつも欲望に負けて、筋道の通った行動なんて全然できない。でもそれに対する憧れは強くて、ツイッターではできもしない筋道の通った行動について理想論ばかりぶっている。いい加減、やれないことについて大口を叩くのはやめよう。やめよう。やめるんじゃないかな。