日記の活動をアピールする気持ち

日記の活動をアピールする気持ちの表れと、気持ちの変化

逆立ちしたってできない

 逆立ちすると難しいことのほうが多いのでは?

カクトレ

自分のことばかり書き散らすのは恥ずかしいことなのではないか、おかしいことなのではないかと思ってしばらく書けずにいた。まだそう思っている。

くだらないことでも、拙い文でも、つらっと書いていける人はすごいと思う。うらやましいと思う。「今思っていることを書きましょう」なんて言われても、筆は止まる一方で、「困った、これでは意味が通らない、主語はどこだ?結局言いたいことは?」と考え続けてしまう。今かなり無理をしてキーボードを打つ手を止めないように書いていて、必死で頭を働かせている。うわ、どうしよう。この「キーボードを~」は始めとか終わりとか、わかりやすいところに置くべきだったんじゃないだろうか。つらい。恥ずかしい。恥ずかしい文章を書いている。タイトルに書けば大丈夫かな?フォームが悪いらしくすぐ右手首が痛くなる。

何の話だったかな。そう、僕は文章の体裁がとても気になる性質で、気になる割には上手い文章はさっぱり書けるようにならない。書く分量が少ないので当然ではあるけれど、けれど、、けれど何だろう。

 

40秒くらい止まって見直してしまった。何も得られなかった。ここから駄文でなくするにはどうしたら良いのだろうか。無理か。あーこんなものを公開するべきではないのでは?と思いながら、「こんなもの」なんて書かなければいいのにと思う。

ネット上で公開されるものに付く「つまらないものですが…」という言い回しがとても嫌いだ。謙遜なんてしなければいいのに。自分の出すものには一定の自信があるから世に公開しているわけで、「いえいえ、私なんて(と言いながら、○○に比べればもちろん大したことないがxxよりは良い)」と誰しも思っているはずだ。僕は思っている。あなたも思っているでしょう。いるでしょうが。

なので、自分の基準では「これは世に出せるレベルじゃないだろう…」と思ってしまうようなクオリティの絵や音楽を見聞きすると思考が止まってしまう。嘲りの気持ちも当然含まれているのだけれど、困惑が大きい。一方、これは自分に当てはめてしまうと厄介で、世の中の良い物に触れる限り、良い物に対する感度(センス)は上がっていく。一方で自分で作り出すものは創り出さないと、そのレベルが上がらない。その結果「世に出せないレベル」だけむやみに上がってしまって、身動きが取れなくなる。

 

このブログでなんども同じ話をしている。僕は自身のセンスに自信があるが、創り出すことにあまりに慣れていない。2,3記事、内容が重複しているような気がする。また書いてしまった。自分の内面の、理解できていることについて。では作るしかないのである。

 

手を止めずに書けば10分しないでこれくらい書けるんじゃないか。かなり苦しいけど、トレーニングのようで面白かった。

落ち着かない日々

自分の音楽的才能には多少の自信があって、自分を楽しませることのできる音楽を作ることができる自負がある。一方で怠惰が自分の大部分を占めていて、すべてのことを後回しにして寝てしまったり、だらだらしてしまったりする。

 

なぜかといえば、音楽は生活の本質ではない。音楽がなくても生きていける。

 

それでもなお、音楽は(私の)生活の本質である。幼いころから触れてきたせいで、あまりに音楽に近づきすぎている。

 

何度目の決意かわからないけれど、今は自分のための音楽を作りたい。自分が真に良いとおもう音楽。

言ってないでやったらどうですか。

ロンリセンス

僕の話し方は論理的らしい。少なくとも、きちんとした場で話す場合には。最近は偉い人と話す機会も多いので、よく言われるようになった。自分としては、いくつも先回りの予防線を張っているという認識はあれど、「自分の話し方は論理的だなあ」と思ったことは一度もない。ということは才能、あるいはセンスに分類されるもので、何かの拍子に抜け落ちるのではないかという不安がある。自分の楽器のセンスについても常にその不安があるので、なるべく言葉にして、技術にして整理しておきたいと考えている。論理的な話し方についても同様に技術にする必要がありそうだ。

自分のことを論理的だと思ったことはない。いつも欲望に負けて、筋道の通った行動なんて全然できない。でもそれに対する憧れは強くて、ツイッターではできもしない筋道の通った行動について理想論ばかりぶっている。いい加減、やれないことについて大口を叩くのはやめよう。やめよう。やめるんじゃないかな。

災害・イヤホン

 「たいていのことは自分に何かできる余地があって、そうでないものはもはや災害なので、逃げる行動をとるべきだ。なので本当に挫折するということが僕にはまだわからない。できることが何もないという状況は(条件を緩和した場合には)あまりないのでは?」という話をしたら、「自分のことについても斜め上から見 てる」と言われた。

 中学生の時にお下がりでMDウォークマンをもらって、どこにでもイヤホンをするようになってから、すべてのことは他人事になった。イヤホンをしたまま家を出ると、自分の頭の中はいつまでも家の中で、周りは窓の外の景色になる。でも身体は家からはみ出しているので雨にぬれたり、人にぶつかったりする。そういう感覚が染みついている。イヤホンをしたまま車に轢かれたことがあるけれど、身体の痛みは確かなのに音楽の鳴り続ける僕の頭はどこか他人事で、夢の中のようだった。

合理的感受性鋭敏性

 基本的に、自分の気持ちに少し鈍感だ。ここ何年かは感情を表に出さず、理性的に、合理的に行動するのがかっこいい・大人だと思っているフシがあるし、それに伴って自分の心の動きに対しても鈍感になってきたような気がする。芸術に触れたときなんかは、人よりも多くの情報を感じて心を動かされると自覚しているけれど、それは受信する心構えができているからで、人との会話など、とっさに受け取るものについてはうまく受け止められていないのではないか。投げられたボールに気づきもしないか、お腹にスマッシュヒットしているのに痛みに気づかないかしている。

 理性的であることと感受性が豊かであること・感情を尊重することは、問題なく両立できることだ。人間に感情は間違いなくあるし、自分や他人に心の動きがあることを無視して論理的・合理的であることだけを目指すのは、それこそ合理的ではない。人間は気持ちで動いている。気持ちになっていきましょう。おわり。

気持ちになる

 

 気持ちの表れを標榜していながら、あまり気持ちを素直に書くことができていない。そもそも僕は文章がかなり下手で、横道に横道に逸れてなんだかわからなくなることが非常に多い。今も「横道に~」のあたりで別なことを書きそうになったし、いま打った文も「横道に~」なんて詳しい箇所を述べないほうがすっきり読めたんじゃないか、とか考えている。

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 ここまでを見返してみると、「そもそも僕は~」からすでに逸れているわけで、そもそも、から始めてもいいけれど二文めの終わり方は一文めを受ける形にしないとダメだろう。さらに逸れ方の解説を三文めで始めてしまったために本当に逸れてしまっている。本当に下手。なかなかな能力だ。

 

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 祖父が一昨年亡くなってから、精神の変質についてよく考える。彼は元々かなり几帳面な性質で、なにごともきっちりしていないと気がすまないのだった。晩年の5年ほどは体調が悪く、なかなか自室から出られなかったが、自分の飲む薬の量や排泄物の量などを毎日事細かに記録していた。世話をしている祖母へもその几帳面さを強要し、時に嫌味なことを言ってしまうために、夫婦は二人ともかなり疲れてしまっていた。僕の記憶している限り、昔の彼はそうではなかった。もっと彼の妻を尊重していた。環境が変わってしまい、老いてしまうためにそのように精神が変質してしまうのだろうか、と彼が亡くなってから考えた。それは恐ろしいことだと思った。

 自分は自分だと信じ込みながらも、常に少しずつ変わっている。5年前の自分を振り返ると、自分はかなり幼稚だったと感じるし、浅はかな行動の一つ一つの際にどんなことを思っていたのか思い出せないことがとても多い。次の5年もどんどん変質していくのだろうか、それとも軸が出来上がって変化は緩やかになっていくのだろうか。今はまだ20代前半なので、今までの5年間とこれからの5年間では話が違うと思っているけれど、実際のところはどうなのだろう。「人間は常に成長できる」なんて言われたりもするけれど、精神の変質がいつもいい方向への成長だとは僕には思えない。慣れや諦めが定着してしまうために起こる変化がきっとたくさんあって、心を守るつもりの姿勢が心の別の部分を硬化させているんじゃないかと思う。

 

これ以上書くと横道に逸れそうなので、今日はここまで。おわり。