日記の活動をアピールする気持ち

日記の活動をアピールする気持ちの表れと、気持ちの変化

楽器が弾けます。

Twitter

twitter.com

SoundCloud

soundcloud.com

 

YouTube

www.youtube.com

 

 

定義域

「行き詰まる」の意味で「煮詰まる」を使っている人をみるとむかつくし、「17時台」を「17時代」と書いている人に対しても滅びよと思ってしまう。これらは単なる誤用だけれど、いつも言葉の定義にこだわってしまう傾向にある。

言葉の定義を拡張することは、面白い文章表現には不可欠で、本来扱わない領域にある言葉を持ってくることでどきどきするような表現が生まれたりする。最近は視覚的表現に関心があって(フォントとか)、しばらく本を読まないうちにどんどんつまらない人間になってしまった。自覚だけはあるけれど、ゲームは面白いし、オナニーは気持ちいい。

正直、自分のような頭の固い人間にとっては詩的表現も分析的に捉えて学ぶものであるので、若さや感性のたまものとしての詩という扱いには疑問を感じる。

 

今年も3分の1が過ぎようとしているけれど、今年の目標を設定することをまだ諦めていない。今年は慣れていないことをたくさんしていきたい。短歌とか。

過呼吸のまち電源なく生きうるどこからが自分どこからでも

ストロングゼロセンファイター

大学3年くらいの6月、僕はバンドサークルに所属していて、学祭の打ち上げもお開きになった2時過ぎごろに馬鹿笑いをしていたのだった。大学の敷地内で男が5,6人集まって、アコギ1本の伴奏でセッションとも呼べない即興の歌を歌っていた。全員バンド経験があるだけあって、キラーフレーズ(性器の名称など)が産まれるとコーラスや語り、フリースタイルラップなどのアレンジを無限に広げていけるのが、酒に酔った頭に強烈な愉快さを与えた。我々はPETTINGZ a.k.a. オパンポンズとしてその活動を開始したのだった。これがミュージックの真髄だと実感した。オマンティスアトランティス

という思い出を、数年ぶりに飲んだストロングゼロ ダブルレモンの味で思い出した。ぬるいのに強い酒、すっげーマズい。でも何かこう、置き忘れた青春的な、あの頃的な味がして、無性に切なくなってきた。青春を全て回収してきた方ではないので余計にそう思える。おっさんになってから思い出すばかりになったら本当に切ないだろうなあ…ばかみたいな思い出をどんどん作っていこうと決意した。オマンティスアトランティス

セカイ径

自分が思っているより、自分の思っていることをつらっと書けてしまう人が多いのだなと感じる。もしかしてみんな、特別に恰好をつけずに文章がかけるのだろうか。最近読んでいるブログには、「きみ」だの「世界」だのが、なんの断りもなしに出てくる。自分の内面を自分の内面のまま写し取ったような、でたらめなのに魅力ある文章が飛び出してくる。僕にはまだ、そのような文章がかけそうにない。

5年くらい前からバンドをしたりやめたりして、曲をつくっている。いくつかは英語で、大抵は歌詞から作る。ほとんどはシーンをつなぎ合わせたもので、叙情的なものはあまりない。と思う(とはいえ英語で詩を書くのが特別うまいわけではない)。あまり自分の感情に関心がない傾向にあるので、それが詩にも表れているという気がする。誰かの感情の動きという、不確かでどうでもいいものより、情景を示すことによって反応を見たいのかもしれない。とはいえアマチュアバンドの歌詞に関心を示す人なんて稀で、事実今まで2人くらいにしか歌詞の話をされたことはない。

 

 世界は自分の中にしかないと思っているわりに、自分のこととなるとまるで頑張れる様子がない。結局のところ、他人という外圧がないと怠惰が膨張して自分の形を定められないので、みんなもっと外圧をかけてほしい。それで一生をやっていけるなら、それで何の問題もないと思っている。結果としては、外圧がかかっていたほうが世界が広がるような気もしていて、そうしてどんどん径を広げていけたらいいと思っている。僕にとってのきみは一人しかおらず、きみにも圧力をかけてほしいので、セカイ系としてはなんだか恰好のつかないかたちになる。

ふーゆーあー

ずっと焦燥感を抱きながら日々暮らしている。自分のしなくてはならないこと、自分のしたいこと、自分に期待されていることがどれも上手にこなせず、自分のためにいっさいならないこと(Goat Simulatorとか)ばかりしている。焦燥感をもっているくせして動けず、それは動き出さないからなのだけれど、ではどうやって動けない人を動き出させることができるのだろうか。

冬になってから、もとから散漫な注意力がさらに散漫になった。気圧のせいで常に眠いのでコーヒーを飲むと、さらに注意力がなくなっていく。こんなに冬が嫌いだったかと思うほど、今年の自分は冬をうらんでいる。

でも本当は、冬のせいにできる割合は10%くらいで、残りは自分に責任があるのだ。責任責任。嫌な言葉だなあ。まだ僕は、自分の人生に責任を持ちたいような、誰かに持ってもらいたいような、子供っぽい思いでいる。子供は楽だけれど、真に自由ではない。大人は大変だけれど、真の自由を獲得できるかもしれない。真の自由は実は苦しいかもしれないし、理解されないかもしれない。

つくり出すということに魅力を感じてしまった以上、僕は真の自由に憧れがある。そのために努力を惜しまない人物になれるだろうか。

 

そんな気持ちでつくったわけではありません。4日前につくった曲。暇なんかじゃあないのに画像の加工もしたりなんかして。

soundcloud.com

さからう

さからって生き、あらがって生きる。あがなって生きる。そのように、生きうる。

まだ20代でもう20代だけれど、最近やけに生きることについてのことがらがしみ込んでくる。生きる人や生きない人がいて、僕はまだ生きている。生きなかった人の灰がどこを見ても広がっていて、眼鏡でもかけていないとやってられない。生きる人も生きない人も裸眼で見られる人は、よくやっているなあと思う。

 

すべては僕の問題であって、僕の問題でないものは存在しない。僕の周りにいる人が生きるか生きないかは僕の問題だ。他人の命を勝手に背負い込んでいる?生き死にをコントロールできるという話ではない。周りの人間が生きるという出来事・生きないという出来事に対面している僕には、僕の問題しかないという話だ。

あたりまえすぎた。くだらない話だ。

死んだことのない僕たち。

でも生きていてほしいよ。みんなに生きていてほしい。死なないといけないことに対面したことがないから、それがどのようなことか、まだわからない。そんなことに対面したときは死ぬのだから、迷いはないのだろうと想像はするけれど、これは定義がそうだからで、それってどんなことなのだろう。一体どうしたとき、生きないことを選ぶのですか。

くちなし

死人に口が形成されて、口を使って、口がなくなっていく。結果として死人には口がなくなる。口がなくなるまでの過程であるところの僕ら死人には口がある時期があって、口を使えるうちに口のない死人のことをあれこれ言う。口のない死人はそれを黙ってみているけれど、口のない死人には目もないのだった。

それで?いや、べつに。